2006年04月29日
「鴎外最大の悲劇」 坂内正 著 新潮選書
以前のエントリー(4 月 9 日)でも引用したが、鴎外と脚気の問題を考へる上で欠かせない書である。鴎外の著作はもとより日記、書翰に至るまで調べ上げ、綿密な考証を行つてゐる。陸軍の兵食改良に関はつて行くうちに、脚気問題の論争の当事者となり、反栄養障碍説の中心人物になつて行くこと、そして栄養障碍説が次第に勝利を収める過程で、鴎外は考証史伝物へと傾斜して行き、今日鴎外を文豪たらしめてゐる名作を著したことが鮮やかに示されてゐる。
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2006年04月21日
米は麦より優れているか: アミノ酸スコアの陥穽
“アミノ酸スコア”は米蛋白質が小麦蛋白質より高い。このことから蛋白質摂取の面で米が小麦より優れているという主張をよく耳にする。これも日本型食生活キャンペーンの一つである。しかし、アミノ酸スコアというものがどんなものかを知ったうえで同じ主張をすることができるだろうか。
ある食品の蛋白質のアミノ酸スコアは以下のように計算する。
1) 当該蛋白質中で最も不足している必須アミノ酸が蛋白質全体に占める割合を A とする。
2) “良質の蛋白質”において 1) の必須アミノ酸が蛋白質全体に占める割合を B とする。
3) A/B × 100 がアミノ酸スコアとなる。
2) の「良質の蛋白質」を何にするかで異なってくるが,食品どうしの間の比較であれば,B の値は一定なので,A の値の比較がそのままアミノ酸スコアの比較になる。
五訂日本食品標準成分表の精白米、強力粉、薄力粉の蛋白質含量と最も不足している必須アミノ酸(第一制限アミノ酸)のリジン(米と麦で第一制限アミノ酸は同じくリジンである)の含量は以下の通りである。
100 g に含まれる蛋白質の量(左)とリジンの量(右)
精白米 7.4 g 0.225 g
強力粉 11.7 g 0.266 g
薄力粉 8.0 g 0.210 g
これから A の値を計算すれば、精白米、強力粉、薄力粉の順に 0.0304, 0.0227, 0.0263 であり,確かに精白米は強力粉よりもアミノ酸スコアが高いことになる。ところが,強力粉は同じ重さの精白米よりもリジンの含量は多い。それにもかかわらずアミノ酸スコアが低いのは蛋白質の量が多いからである。小麦の蛋白質グルテンに多量のグルタミンが含まれるためこのようなことになる。グルタミンの含量を減らせば,アミノ酸スコアは精白米以上になるのである。
アミノ酸スコアの意義は,その蛋白質だけで必須アミノ酸を充足しようとした場合,どれだけ少ない量で充足できるかという指標になることである。純粋な米蛋白質と純粋な小麦蛋白質を比較すると,米蛋白質の方が少ない量で必須アミノ酸を充足することができる。しかし,精白米と小麦粉として比較した場合は小麦粉の方が少ない重量で必須アミノ酸を充足することができる。この違いは押さえておくべきである。
現在の栄養学では,非必須アミノ酸が軽く扱われている。極端な話をすれば,蛋白質のアミノ酸スコアを大きくしようとすれば非必須アミノ酸を含まないようにすれば良いことになる。非必須アミノ酸を無くした分,蛋白質全体の量が少なくなるからである。このやうないびつな蛋白質が「良質蛋白質」となつてしまうところにアミノ酸スコアという概念の問題がある。非必須アミノ酸は体内で他のアミノ酸から作ることができるので,その所用量がわからない。しかし,身体にとつて理想的な摂取量というのが存在するはずである。今の栄養学はこの点の解明が不十分である。
小麦粉の場合,アミノ酸スコアの概念ではゴミのように扱われてしまう非必須アミノ酸であるグルタミンを多く含んでいるためにスコアを落としているのである。しかし果してグルタミンはゴミなのかどうか。現時点でそう決めつける研究結果は無い。逆にリンパ球の増殖やサイトカインの産生を促進して免疫系を賦活することが認められている。グルタミンを多く摂取することが身体にとって悪いという証明がなされて初めて,米が小麦より蛋白質摂取の面で優れた食物であると言うことができるのである。
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ある食品の蛋白質のアミノ酸スコアは以下のように計算する。
1) 当該蛋白質中で最も不足している必須アミノ酸が蛋白質全体に占める割合を A とする。
2) “良質の蛋白質”において 1) の必須アミノ酸が蛋白質全体に占める割合を B とする。
3) A/B × 100 がアミノ酸スコアとなる。
2) の「良質の蛋白質」を何にするかで異なってくるが,食品どうしの間の比較であれば,B の値は一定なので,A の値の比較がそのままアミノ酸スコアの比較になる。
五訂日本食品標準成分表の精白米、強力粉、薄力粉の蛋白質含量と最も不足している必須アミノ酸(第一制限アミノ酸)のリジン(米と麦で第一制限アミノ酸は同じくリジンである)の含量は以下の通りである。
100 g に含まれる蛋白質の量(左)とリジンの量(右)
精白米 7.4 g 0.225 g
強力粉 11.7 g 0.266 g
薄力粉 8.0 g 0.210 g
これから A の値を計算すれば、精白米、強力粉、薄力粉の順に 0.0304, 0.0227, 0.0263 であり,確かに精白米は強力粉よりもアミノ酸スコアが高いことになる。ところが,強力粉は同じ重さの精白米よりもリジンの含量は多い。それにもかかわらずアミノ酸スコアが低いのは蛋白質の量が多いからである。小麦の蛋白質グルテンに多量のグルタミンが含まれるためこのようなことになる。グルタミンの含量を減らせば,アミノ酸スコアは精白米以上になるのである。
アミノ酸スコアの意義は,その蛋白質だけで必須アミノ酸を充足しようとした場合,どれだけ少ない量で充足できるかという指標になることである。純粋な米蛋白質と純粋な小麦蛋白質を比較すると,米蛋白質の方が少ない量で必須アミノ酸を充足することができる。しかし,精白米と小麦粉として比較した場合は小麦粉の方が少ない重量で必須アミノ酸を充足することができる。この違いは押さえておくべきである。
現在の栄養学では,非必須アミノ酸が軽く扱われている。極端な話をすれば,蛋白質のアミノ酸スコアを大きくしようとすれば非必須アミノ酸を含まないようにすれば良いことになる。非必須アミノ酸を無くした分,蛋白質全体の量が少なくなるからである。このやうないびつな蛋白質が「良質蛋白質」となつてしまうところにアミノ酸スコアという概念の問題がある。非必須アミノ酸は体内で他のアミノ酸から作ることができるので,その所用量がわからない。しかし,身体にとつて理想的な摂取量というのが存在するはずである。今の栄養学はこの点の解明が不十分である。
小麦粉の場合,アミノ酸スコアの概念ではゴミのように扱われてしまう非必須アミノ酸であるグルタミンを多く含んでいるためにスコアを落としているのである。しかし果してグルタミンはゴミなのかどうか。現時点でそう決めつける研究結果は無い。逆にリンパ球の増殖やサイトカインの産生を促進して免疫系を賦活することが認められている。グルタミンを多く摂取することが身体にとって悪いという証明がなされて初めて,米が小麦より蛋白質摂取の面で優れた食物であると言うことができるのである。
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2006年04月17日
両対応の立体視図

4 月 7 日のエントリー「風景の錯覚」について,昨日 kojidoi さんから御指摘を受けたが,交叉法で見る人のことを忘れていた。立体視には平行法と交叉法があるが,ほとんどの人はどちらか一方しか出来ない。私も平行法しか出来ない。平行法で見る人の方が交叉法で見る人よりも多いためか,平行法向きに作つた図の方が一般的である。しかし,両方の人がいる以上,どちらにも配慮した作図をすべきであろう。上の図はそのような図である。平行法で見る人は右 2 つを,交叉法で見る人は左 2 つを見る。そうすれば,どちらの場合も赤丸が手前に見える。
分子構造を扱う論文では立体視図が登場するが,親切な論文ではこのように 3 つ並べていて,parallel view, cross-eye view と注釈を付けている。
交叉法の利点は,大きな図を二つ並べて立体視できることである。脳神経外科医は交叉法の訓練をさせられる。脳血管造影の際に角度を少し変えた 2 枚の写真を撮影し,そのフィルムを両手に持って交叉法で見ると脳の血管が立体的に見える。もっとも,最近では技術が進み,コンピュータの画面で三次元に構築してくれるようになったので,こんな職人芸は廃れてしまうかもしれない。
2006年04月15日
「食育」に根拠はあるのか: 独り歩きする「日本型食生活」キャンペーン
最近「食育」が叫ばれてゐる。農水省のウェブサイトを見ると、「食育」と言つても内容は色々あるが、重要な取組の一つに「日本型食生活の普及・啓発」といふのがある。これに沿つて、「日本型食生活を見直さう」といふキャンペーンがさまざまなところで活溌になつてゐる。最近の新聞の全面広告で見たその種のキャンペーンの中に「日本人はコレステロール値が低い。これは米を食べるからである。」といふのがあつた。米食がコレステロールを下げるといふ研究結果は聞いたことが無かつたので不思議に思つたのだが・・・
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2006年04月13日
フィチン酸とミネラル
精白しない全粒の穀物はミネラルが多く含まれている。しかし,全粒の穀物を食べるとそれらのミネラルは吸収されないばかりか,他のミネラルの吸収も悪くなる。これは穀物の粒の表層に多く含まれるフィチン酸のためである。このようなことがわかる前から,人類は穀物を食餌にする際の適切な処理方法を開発してきた。
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2006年04月09日
人はどこまで悪魔になれるか: 高木兼寛が森林太郎(鴎外)を論破できなかつた理由
海軍が麦飯に踏み切つたことで脚気がなくなつたこと、それを推進した高木兼寛のこと、そしてその効果に森鴎外が否定的な立場を取りつづけた結果として陸軍で脚気がなかなか無くならなかつたことは今では良く知られてゐる。最近も余丁町散人さんのブログでこのことが取り上げられた。この機会に、なぜ高木兼寛の説が森林太郎の反論に対して無力だつたかを考へてみたい。
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2006年04月08日
環境問題のウソ 書評その二
「環境問題のウソ」で検索して来られる方が非常に多い。前に書いたのは第一章についてのことだけなので,他の章についても書く。
前回、「定常状態」の概念を紹介した。これを生態系に当てはめると,食べるものと食べられるものの関係が繰り返され,それぞれの集団の個体数が大きく変化しない状態ととらえることができる。ここに外部からの作用が加わると,この関係は乱れ,集団の個体数は集団によって大きく変化する。しかし,やがてこのような擾乱は系に吸収され,新たな定常状態に達する。物理化学的にこれは理論的に説明できるものであり,その理論を生態系に敷衍することも可能である。勿論,物理化学では分子種が消滅することはまず起こらないが,生態系では確かに種の絶滅ということが起こり得る。ところが,生物種は分子種と異なって,絶滅によってぽつかりと空いた隙間を埋めるような種が必ず出現し,定常状態が復活する。これはほぼ原理的と言って良いようなことである。もっともこの擾乱の程度が大きくなりすぎると定常状態には戻らなくなるので,環境の擾乱の程度は低い方が良い。第三章はもともとうまく書かれているが,このようなことを念頭において読むと更に理解し易いであろう。
第二章のダイオキシン問題についての話も説得力がある。
問題は第四章である。正直言つて,この章は良くわからなかった。最初は第三章の論旨が生きており,自然は保護すれば良いというものではないことが論じられているが,途中から急に里山とそこに棲息する生物種の保全の話になるのである。もっとも,昨今良く言われる里山保全の論理とは一線を劃するものであり,里山保全に税金を使うべきではなく,篤志家の活動をうまく取り込むべきであるとしている。里山を放っておいても良いのであるが,折角あるものは存続した方が良いと言う。放置して極相林となったものは生産性が落ちるからというのではなく,どうやら里山にしか棲息しない昆虫が無くなってしまうといふのが理由のようであり,これは第三章で馴染んだ論理とは異質のものである。昆虫採集を趣味とする著者の思いにひきずられたのだろうか。
繰り返すと,第一章の温暖化の問題についてはやや楽観的過ぎると思われる。その論拠となっている計算に問題があるのは前回指摘した通りである。これと上述の第四章のことが問題点として残るが,全体として見れば,今日の重要な問題に切り込んだ好書である。
前回、「定常状態」の概念を紹介した。これを生態系に当てはめると,食べるものと食べられるものの関係が繰り返され,それぞれの集団の個体数が大きく変化しない状態ととらえることができる。ここに外部からの作用が加わると,この関係は乱れ,集団の個体数は集団によって大きく変化する。しかし,やがてこのような擾乱は系に吸収され,新たな定常状態に達する。物理化学的にこれは理論的に説明できるものであり,その理論を生態系に敷衍することも可能である。勿論,物理化学では分子種が消滅することはまず起こらないが,生態系では確かに種の絶滅ということが起こり得る。ところが,生物種は分子種と異なって,絶滅によってぽつかりと空いた隙間を埋めるような種が必ず出現し,定常状態が復活する。これはほぼ原理的と言って良いようなことである。もっともこの擾乱の程度が大きくなりすぎると定常状態には戻らなくなるので,環境の擾乱の程度は低い方が良い。第三章はもともとうまく書かれているが,このようなことを念頭において読むと更に理解し易いであろう。
第二章のダイオキシン問題についての話も説得力がある。
問題は第四章である。正直言つて,この章は良くわからなかった。最初は第三章の論旨が生きており,自然は保護すれば良いというものではないことが論じられているが,途中から急に里山とそこに棲息する生物種の保全の話になるのである。もっとも,昨今良く言われる里山保全の論理とは一線を劃するものであり,里山保全に税金を使うべきではなく,篤志家の活動をうまく取り込むべきであるとしている。里山を放っておいても良いのであるが,折角あるものは存続した方が良いと言う。放置して極相林となったものは生産性が落ちるからというのではなく,どうやら里山にしか棲息しない昆虫が無くなってしまうといふのが理由のようであり,これは第三章で馴染んだ論理とは異質のものである。昆虫採集を趣味とする著者の思いにひきずられたのだろうか。
繰り返すと,第一章の温暖化の問題についてはやや楽観的過ぎると思われる。その論拠となっている計算に問題があるのは前回指摘した通りである。これと上述の第四章のことが問題点として残るが,全体として見れば,今日の重要な問題に切り込んだ好書である。
2006年04月07日
風景の錯覚

赤丸と青丸の組となつた図が左右に二つ並んでいる。左側の組を左眼で,右側の組を右目で見ると,赤丸が手前に見えるはずである。
訓練しなくても 3 割の人は簡単に見ることができ,訓練すればさらに 4 割,計 7 割の人が見ることができるようである。
この立体視自体は錯覚とは言えないが,遠近感に関連した錯覚がある。
上の図を説明のとおりに見るとき,左眼には左側の図の像が,右眼には右側の図の像が別々に入ることになる。この像の入り方は,下の図のように,手前に赤丸,奥に青丸が配置されているのを眺めたときと同じである。赤丸と青丸の間隔は左眼からは狭く,右目からは広く見えるのである。
このようにして左右の目に入った像の対応する部分が左右の網膜上のどの場所に投影されているかという情報を視覚野で処理して,我々の脳は像の各点の前後の位置関係を認知している。

さて,最初の図を立体視できた人は,赤丸と青丸の大きさをどのように感じただろうか。青丸の方が大きく見えたであろう。網膜に映った段階では赤丸も青丸も同じ大きさである。したがって,視覚野で処理される際に遠くに見えるものは大きく拡大して認識していることがわかる。
さらに言うと,赤丸より青丸の方が若干ぼやけて見えるであろう。網膜上では同じ大きさの像であり,解像度すなわち錐体細胞の密度が同じであるから,より大きく拡大した方がぼやけるのはデジタル画像の処理で経験するのと同じである。
風景を見るとき,我々は遠くの景色を拡大して認識しているのである。景色に感動して写真を撮っても,後で見てみると大した写真ではないということを良く経験するが,それは写真では遠くの景色を“正しい”大きさで示してしまうからである。
地平線近くの太陽や月が異様に大きく見えるのも,地上の風景が近くに見えるので,それとの遠近の比較で認識するからである。中天にあるときには他に比べるものが無いので,地平線近くのときほど大きくは見えないのである。



